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私はバンコクでの体験を書いて、3枚の写真と一緒にアン・ローレンツに出しました。以下がその内容です。顔の成形のときにまたお会いしましょう。ありがとう。リン
私は2002年10月10日の夜12時にバンコクに到着しました。東南アジアのにおいとジェット機からの降下で、私はパニック状態に落ちて、30年前のベトナム戦争のいやな記憶が蘇ました。私は性転換手術のためにバンコクに来たのであって、パニック状態などには準備していませんでした。ベトナムでの経験で私には心の傷が残り、パニック状態になりやすいです。(医学ではこの病気をPTSDと呼んでおり、ここでも以下この病気をPTSDと表します。)
PTSDで私は突然自分がバンコクに来た目的を失いました。治療医であるジュデイー先生からPTSDがあるのを知っていましたが、これでこの病気がどれだけひどい病気なのかを知りました。
ジュデイー先生によると、バンコクは私にとって手術を行うのにふさわしい所ではありません。しかし、私は54歳で、私にとって時間は大事な要素でした。カナダやアメリカで手術するのにお金を貯めて、しかも長いウエーテイングリストを待つと、自分の順番が来るときには私はもう60歳以上になったでしょう。しかし、ピチェート博士とバンコクならお金はありました。とうとう恐怖に直面する時が来たのです。私はずっと手術が怖かったです。性転換手術もするかどうかはっきりしませんでした。私はお金を払うなら、フェースリフトぐらいのことでもそれなりの結果を要求します。しかし、家のアリゾナでは誰もピチェート博士にお世話になったことはありません。ある女は別のタイのお医者さんにお世話になっただけです。今回の私の行動は勇気があることを証明するするのか、どれだけ手術をしたいことを証明するのか自分でもわかりません。いずれにしても、私は東南アジアでのスタート時点にまた立ちました。
全般的に言いますと、バンコクでの体験はしんどいものでした。お医者さんや手術のためではなく、PTSDのためです。しかし、その20日間の後に私は自分のことをもっと知るようになって、心の傷も少しは治りました。それだけでなく、ピチェート博士への尊敬とともに、新しい人生を始めるための女の体で家に戻れました。
到着した次の日の朝8時に、ピチェート博士の助手さん二人はホテル(ワンタナーマンション)まで私を迎えに来ました。9時に私は博士に会いました。彼が部屋に向かって歩いて来ている途中に、私はガラスの向こう側に優しい微笑みを浮かべる彼の顔が見えました。その時点で私は自分が性転換手術をするだろうと思いました。博士はいろんな選択を私に話しました。私が難しい質問をしても、博士は率直に答えてくれました。彼は手術に伴う危険性を私に説明しました。彼の誠実で私は彼を信頼するようになりました。正午前に私はもう手術部屋の中にいました。そして時差ぼけの状態およびアジアに対する複雑な気持ちで、性転換手術をしました。
14年間のゴルフ場の建設および管理の仕事で私は背中を痛めました。仰向けに長く寝ていると背中が痛くなります。しかし、私はすっかりこのことをピチェート博士に話し忘れました。手術して麻酔が効かなくなった後、私は真っ暗に(それがその日の夜なのか、もう次の日の朝に近いときなのかわかりませんが)目を覚まし、PTSDで頭が真っ白で、背中はとても痛く感じました。次の日の朝、私の頭が正常に戻ったときに、自分が問題児だったことを看護婦さんから聞きました。うそだと少しも思いませんでした。私はタイ語がわからなくて、看護婦さんに背中の痛みを説明することができませんでした。朝ピチェート博士に背中の痛みのことを話し、彼はすぐ私に痛み止めの薬を注射してくれました。その時点から3日間私はホテルで、とてもいい面倒見のいいプロたちの力で、快適に回復しました。
そして私は一人ではありませんでした。ピチェート博士の秘書のニットさんは三日間ともずっと私と一緒でした。彼女の存在は予想外でしたが、私は感謝の気持ちでそれを受けとりました。私たちはいろんなことについて会話しました。彼女はとても感じのいい女性で、今でもまた会いたいです。そして私は一人ではありませんでした。
手術後の4日目私はホテルに戻りました。実際私はずっとクリニックで回復できましたが、前にホテル代を払って、それが払い戻しできなかったため、ホテルに戻りました。その埋め合わせとして、私の出費を減らすようにホテルにいる間にピチェート博士はホテルまで食べ物と飲み物を持って来てくれました。彼自身は毎日来ました。ある晩、私は手術とは関係のないパニック状態に落ちて、夜中彼に電話しました。すると、彼は親切に来てくれました。
私は時々クリニックで時間を過ごしました。クリニックの隣はTescoと言う欧米のスーパーがあります。あそこから私は新鮮な果物やピーナツバター、小麦パン、チーズ、固いロールパン、ツナのサンドイッチなどを買いました。私にとってタイ料理は甘すぎるか辛すぎるかのどちらかで、博士がやり取りしているタイ料理を食べれませんでした。そのために、バンコクでの食事の多くは洋食でした。また、クリニックにはケンタッキーやピザのメニューがおいてありました。食べたいものを博士に言えば、彼は人を買いに行って来させてくれました。
私は時々自分で大きなホテルに行って、チーズバーガーやラムシチューなどを楽しみました。グランドホテルでのリブアイのステーキはとてもおいしかったです。食べ物でとても幸せになりました。当時バリの事件がニュースにあって、博士は私の安全が心配で、彼の知っている車とドライバーであっちこっち行くことを進めてくれました。しかし、そのとき私は馬鹿で、あまり頭を使わずにそれを無視し、町のぼろいタクシーを適当につかまえて、行きたいところに行きました。博士がそれを知ったとき、丁寧にそれが賢いことではないと言ってくれました。特に、手術後の最初の日には彼は私ができるだけ動かないで欲いと言いました。
ワンタナーで私はタイに住んでいるイギリス人と親しくなりました。縄の技をロバートから教わりました。一人で、会話する相手がいない状態はありませんでした。その点で私はラッキーでした。ホテル自体は安くて、払った分だけの価値はありました。他のところに行けばもっと柔らかいベッドで寝れるでしょうが、ここなら一晩10ドルだけでした。
ピチェート博士はクリニックのオーナーで、その分だけオーバーヘッドが少なくて済みます。そのために手術代は安い、とタイにいたときに聞きました。私があそこにいる間には、韓国、ヨーロッパ、日本、アメリカからの患者たちがいました。彼らは入れ替わって、少なくとも週に一回ピチェート博士は性転換手術を行うと聞きました。私が到着した日、ある女性は退院しようとしました。私は少し彼女のお母さんと会話をしました。故郷から離れたときに、同じく遠い所から来た人とおしゃべりできるのは相変わらずいいことでした。
私には閉鎖所恐怖症もあり、そのためにじっと部屋に閉じこもれませんでした。それにもかかわらず、回復は順調でした。その段階の治療については、今思えばそんなに記憶に残っていなく、バンコクでの楽しいことばかりが頭に浮かんできました。私がバンコクを出たのは10月28日でした。町を楽しみ始めたときに、出なければならなくなったのです。
故郷に戻ってから、手術のことをいつも考えて、自分で自分の体を大事にしました。博士の命令もちゃんと従いました。手術結果を見た人たちは皆ほめてくれました。私は鏡の中の自分がとても好きです。私がすっかり変わったと人たちが言っています。体から幸せが溢れて出ているそうです。それは自分が本当に幸せだからと信じています。
この手紙を書いている今ではもう2002年のクリスマスに近い時期です。回復の度合いは素晴らしかったです。私はピチェート博士に恩になています。私は彼をお勧めします。顔の成形をしにまた彼の所に行こうと思っています。
患者になるかもしれない人たちに、以下のアドバイスをあげます。
1. 先生に欲しいものをちゃんと言うように。もし私が背中のことを忘れずに言っておけば、痛い思いをせずに済んだでしょう。会話してください。
2. 誰かと一緒に行った方がいいです。
3. ホテルを選ぶとき、快適のために少し料金の高めのものにするべきです。
4. クリニックの近くの欧米のスーパーは便利です。
5. 先生に欲しいものをちゃんと言うように。
私はとても幸せで、これはピチェート博士の手術の腕のおかげです。
ニーラ・リン・バームス |